募金券でつくれる未来
社員との対談
第30回 緑のサヘル×良品計画 アフリカでの緑化。緑を守り、人を守る。
募金券 寄付先団体の皆さんの活動を、良品計画の社員との対談を通してお知らせします。第30回は、進む砂漠化により生活が圧迫され、命をも脅かされているアフリカの人たちを守るため、緑の再生に取り組む、緑のサヘルさんにお話をおききしました。
- 緑が、人の命と暮らしに直結するアフリカの地で
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アフリカでは、家畜の放牧や、調理用の薪の調達をはじめとした、人々の日々の生活に必要な活動が緑の減少につながり、砂漠化が進む一因となっている地域が少なくありません。砂漠化した土地では、人々の生活の困窮が深刻化するばかりですが、今日の暮らしに困る人に、「木を植えよう」と呼びかけるのは無理があります。そうした状況下で、食糧や水の不足を改善し、生活を安定させることと木を植えることをセットにして取り組む日本のNGOがあります。「飢餓ベルト」と呼ばれる地域で、地元住民と共に、飢餓に強い地域づくりに成功してきた、そのモデルとは?
プロフィール
緑のサヘル
緑のサヘルは、1991年に設立して以来、砂漠化が進み、同時に、慢性的な食糧不足に苦しむ地域で、現地の人々とともに活動しています。相互に関係する、飢餓の問題と砂漠化の問題に対して、複合的な手段で解決に取り組み、数々の結果を残してきました。緑が回復した土地では、人々がその重要性を再認識し、自立して保全に取り組む循環が生まれています。
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菅川 拓也さん
緑のサヘル
事務局長大学卒業後、5年間印刷会社に勤務。1988年青年海外協力隊に参加、モロッコ王国にて2年半印刷技術の指導に従事。その後農業実践大学校を経て、1992年より緑のサヘルに参加。プロジェクト調整員や現地代表を務め、食糧増産や生活用水確保、環境保全を始めとする様々な活動に携わる。
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加藤 麻子
良品計画
生活雑貨部 H&B担当
カテゴリーマネージャー1993年入社。名古屋パルコ他、数店舗での勤務と店長を経験後、1999年に生活雑貨部へ異動。多くの部署での業務経験の中で一番長く在席したのは生活雑貨部。複数のカテゴリーの商品開発、在庫管理、海外向け商品の担当を経て、2012年9月より現職。趣味は、街歩きと植物の手入れ。
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太田良 郁也
良品計画
業務改革部 施設設計課1993年入社。横浜ランドマーク店の開業スタッフから複数店舗での勤務を経て、松本パルコ店で新任店長に着任。その後、店舗開発業務へ異動し、再び店舗勤務の後、1999年より現職。新店や改装店の設計を担当。中学1年と小学4年になる2児の父親。趣味は写真。週末は作品撮影に夢中。
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砂漠化の進む、アフリカの地で
加藤:初めて「緑のサヘル」さんを知り、このお名前がすごくすてきだと思いました。サヘルという単語の語源は"岸辺"なんだそうですね。緑の岸辺って、とてもきれいな響きです。
菅川さん:そうなんです。サハラ砂漠の南を、東西に帯状に広がる地域をサヘルと言いますが、かつてその一帯は緑が豊かな草原で、「緑のサヘル」と呼ばれていたそうです。
太田良:そこで砂漠化が進んでいるんですか。
菅川さん:砂漠化の進行により膨大な緑が失われました。作物が育ちにくく、慢性的な食糧不足であることから、「飢餓ベルト」という別名さえ持つようになってしまったのです。
太田良:緑がなくなると水も枯れますから、そこに生きる人たちには死活問題ですよね。
菅川さん:もともと緑が豊かな地域だったからこそ、人々は伝統的に緑に依存した生活をしてきているんです。
加藤:砂漠化の原因はなんなのでしょう。
菅川さん:地球温暖化による気候変動も原因に挙げられますが、それだけではないと思います。そこに暮らす人たちのライフスタイルが変わってきたことも、少なからず影響しています。例えば、伝統的に行われてきた焼畑。昔は焼いた土地が回復するまでの数年間、気長に待っていたんですね。近年になって待てなくなり、次から次へと別の土地も焼いてしまった。また、放牧する家畜を増やして、その家畜が緑をどんどん食べてしまった。貨幣経済になって、収入を増やす必要に迫られたことがもたらした結果ですよね。
昔より、暮らしが苦しくなっていく
加藤:なるほど。生活のためにしてきたことが裏目に出て、悪循環になってしまった。
菅川さん:まさしく悪循環ですね。昔は自給自足できていたのですが、今は売るものがないと食べていけなくなっています。緑が減ると土地の力が弱まって作物の収量が見込めない。だから家畜を増やしてなんとかしようとして、また緑が減る。煮炊きをするのに欠かせない薪も、森がなくなり近くでは得られなくなって、場合によっては何十キロも離れた所まで歩いてとりに行くようになってしまう。
太田良:食べるために必死で何とかしようとしてるのに、自分の首を絞めてしまっている状況なんですね。
菅川さん:そう。必死で働いているんですよ。なのに生活は昔よりも苦しい。地域のほとんどの人が農民で、昔は男性が主食の穀物をつくり、女性は副食となる作物を育てていました。今は家族全員総出で穀物を作付けしても、十分な収量にならず備蓄に回せない。また、早くから現金収入を求めて、綿花栽培に切り替えた農民もいましたが、綿花の市場価格の下落で食べられなくなる。単一栽培を続けると土地が疲弊するので、綿花をやめて通常の農耕に戻ろうとしても戻れなくなってしまった。こんな人たちが大勢います。
加藤:伝統的な暮らしをしていれば、自給自足できたのでしょうか。
菅川さん:一概にそうも言えないのが難しいところです。30年くらい前を知る人が口々に言うのは、昔は作物が今の倍以上収穫できたということ。魚だってもっとずっと獲れたそうです。雨量も今より多かったし、環境が変わってしまって、先祖代々のやり方が通用しなくなっているんです。貨幣経済の流れを止めることもできないですしね。
食べ物と水が必要。「木を植えましょう」とは言えなかった
加藤:そんな難しい状況の中で、菅川さんたちは、悪循環を断ち、生活を回復させるために、緑を再生させようとしたわけなんですね。
菅川さん:そうなんです。農業を強くするためにも、まずは木を植え、育てなくてはならないと。ところが現地に行ってみたら、人々の暮らしは想像を絶する状態で、とても「木を植えましょう」などと言えた状況ではなかったんです。1990年代の初頭のことでした。
太田良:日本とはまるで違う世界ですよね・・・。
菅川さん:現地の人たちに聞いたら、まず「食べたい」「きれいな水が飲みたい」と言う。日本とは別世界です。
太田良:現地の人たちはもちろんですが、菅川さんたちもつらかったのではないですか。
菅川さん:活動開始後、支援に入っていた村で飢饉が起きたんです。約100人が亡くなりました。そのときを思い出すともう、言葉になりません。確かに作物の収量は芳しくなかったのですが、飢饉になるほどではなかったはずなんです。村にやって来た商人に、なけなしの穀物を売ってしまったことで、あっという間に最悪の状態に陥ってしまいました。
加藤:そのとき、どうしても現金がほしかったんですかね・・・。
菅川さん:1年後の10万円より今日の100円がほしい状況で、翌年撒く種までも売ってしまうんですよ。悔しかったですね。村にある食糧を考えると、もう飢饉が目の前に来ていることが私たちにもわかったんです。だけど対策しきれなかった。
加藤:つらいですね・・・。
菅川さん:今の日本では、考えられないですよね。飢饉の年、生活を支えるために父親が出稼ぎに出た家族がありました。父親が不在の分、母親が農作業に明け暮れ、過労で亡くなりました。ふたりの子どもも、飢えで亡くなってしまった。私たちの炊き出しでは間に合わなかったんですよね。もっと助けられた命があったのではないかと、いまだに悔やまれます。
太田良:壮絶ですね・・・。
菅川さん:でもそのときにね、炊き出しを続ける私たちのもとに、村人がやって来たんです。やって来て、食べ物を差し出すんですよ。飢饉の村でです。要らないと言っているのに、自分たちのために働いてくれているからと。あのときのことは、忘れられません。
加藤:・・・。